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山口県の素材で美しい酒をつくる。小さな酒蔵から世界へ日本酒を発信。冷酒の生みの親「山縣本店」の挑戦。

株式会社山縣本店|代表取締役 山縣 俊郎さん

1948(昭和23)年、周南市生まれ。徳山高校から慶應義塾大学商学部に進学し、卒業後、兵庫県の大手酒造メーカー西宮酒造株式会社(現日本盛株式会社)に入社。その後、1974(昭和49)年に帰郷し、家業である株式会社山縣本店に入社。1974(昭和49)年に代表取締役社長に就任する。衰退の一途をたどる日本酒業界を救うべく、全国に先駆けて冷酒をつくったほか、輸出会社を立ち上げ、海外に向けて日本酒の販路を切り拓くなど数々の功績を残す。また、山口県および周南市のまちづくり・人づくりにも積極的に取り組み、徳山商工会議所の副会頭や山口県教育委員長を務めたことも。現在は、山口県酒造組合会長、日本酒造組合中央会理事としてその手腕を振るっている。

明治8年に創業。旧山陽道に面した小さな酒蔵

JR徳山駅から車で約10分の住宅街、旧山陽道に面した山縣本店は、1875(明治8)年創業の酒蔵です。祖先は毛利家の家臣で、初代山縣要助が、明治維新後に新しい家業として日本酒の製造を始めたのがそのルーツといいます。こだわりは、山口県産の素材で「美しい酒をつくる」こと。山口県の農家が育てた米、芋、梅、やわらかな天然水で丹精込めてつくり出される酒は、創業以来、愛され続けています。
さて、147年にもおよぶ歴史を刻むこの山縣本店ですが、これまでの道のりが決して順風満帆だったわけではありません。日本酒の消費量が減少へと転じた1973(昭和48)年、この頃から日本酒人気の低迷は明らかとなり、全国各地の酒蔵は生き残りをかけ、また、日本酒を守るために知恵を絞らねばなりませんでした。その苦難は例に漏れず山縣本店にも訪れたのです。
1974(昭和49)年、日本酒の国内出荷量はピークを迎えていました。しかし、家庭に洋食が広まったこと、冷蔵庫が普及したことで、日本酒はだんだんとビールに押される存在に。また、ビールやワインに比べてアルコール度数が高いことから、「酔うから」「翌日に残るから」との理由で日本酒から離れていく消費者も多かったそう。山口県内の小さな酒蔵が次々廃業していく様子に山縣本店も危機感を抱いていたそうです。「衰退していく日本酒をどうにか復権させたい」、その想いから、山縣本店ではこれまでにない新しい日本酒の開発に乗り出しました。

山縣本店は冷酒の生みの親。日本酒業界を変えた「かほり」

開発を担当したのは、日本三大酒どころの一つである兵庫県灘にある酒造メーカーで修業後、家業である山縣本店に入った山縣俊郎さん。現代表取締役社長です。「日本酒低迷の大きな理由は、業界が伝統に甘んじ、時代の変化に対応してこなかったから」、そう考えた山縣社長は、高アルコール、熱燗か常温で飲むのがスタンダード、どちらかといえば男性(おじさん)に好まれるという日本酒の常識を覆すことを決意。つまり、アルコール度数を控え、ビールやワインなどと同様に冷やして飲む、そして、若者や女性にも愛される日本酒の開発に取り組んだのです。

しかし、熱燗にすると香りが引き立つ日本酒ですが、冷たい状態では香りが抑えられてしまいます。そこで、山縣社長は通産省(現経済産業省)と山口県の技術改善補助金の適用を受け、およそ2年間を費やし、吟醸香を生酒に添加する独自の製法を開発。そして、その技術により誕生したのが、現在、山縣本店の代表銘柄の一つでもある冷酒「かほり」です。

「かほり」

フルーツのような香り、低アルコール度数のソフトな口あたり、そして熱処理を一切しない生酒ならではの風味…、この珍しい日本酒「かほり」は話題となり、発売当初、複数の大手新聞社からも取材を受けたとか。その後、冷酒はどんどん普及し、今では当たり前の存在に。山縣社長が狙った通り、若者や女性にとって日本酒は身近な存在へと変化していきました。地方の小さな酒蔵の挑戦が、日本酒業界に風穴を開けたのは確かな事実だといえるのです。

初代の名前をつけた「芋焼酎要助」。山大生とのコラボ商品も

山縣本店では、1985(昭和60)年に米焼酎「かほり鶴」を、2005(平成17)年には初代山縣要助の名前を命名した「芋焼酎 要助」を発売するなど、焼酎の生産にも取り組んでいます。特に地元の農家が大切に育てた紅芋を原料とする、濃醇な芋の風味と甘い香りが特徴の「要助」は名酒として知られ、山縣本店の焼酎の代名詞ともいえる存在となっています。

2020(令和2)年には、山口大学農学部生物資源環境学科の学生が栽培したサツマイモを原料とした「山口大学実習応援 芋焼酎要助」の製造・販売もスタート(本数限定)。山口大学生協などで販売するほか、周南市のふるさと納税の返礼品にもなっています。

「要助梅酒」や「梅のかほり」など梅酒も製造。もちろん、梅も地元のものを使い、あくまで山口県産の素材にこだわった酒づくりを貫いています。

令和元年、山縣本店創業当初のブランド「防長鶴」を復活

山縣本店は、冷酒「かほり」の発売以来、製造を中止していた創業当初のブランド「防長鶴」を2019(令和元)年に復活させました。ただし、「防長鶴」という名を継ぎながらも、これまでとは全く異なる新しい味わいの酒です。この新しい「防長鶴」を、山口県産の酒米、伝統技術へのこだわりは守りつつ、現杜氏(酒をつくる職人)のみずみずしい感性により「美しく生まれ変わった」と山縣社長は表現します。
復活ブランド「防長鶴」は全部で8種類あり、うち2種類は季節限定の生原酒となります。「防長鶴 純米大吟醸 山田錦」は、厳選した山口県産山田錦が原料で、透き通るような優雅な香りと繊細できめ細やかな味わいが特徴。酒米の王様といわれる山田錦のポテンシャルをしっかりと感じられる一本です。季節限定の「防長鶴 純米吟醸 無濾過生原酒」は、まるで冷やしたマスカットやメロンのようなやわらかさかつ上品な香りが魅力。爽やかな甘味と酸味のバランスが絶妙で、長く余韻が楽しめます。ほか6種類もそれぞれ個性があり、どれもまた飲みたくなる酒ばかり。今の時代に調和した、まさに「美しい酒」なのです。

「防長鶴」

もちろん、ラベルも一新。ナベヅルを模したシンボルマークには、米、雨、山、光、海が描かれており、自然への感謝の想いが込められています。創業当初の酒づくりに想いを馳せつつも、味もラベルもこれまでとガラリと変えたこの「防長鶴」は、この先長く愛される山縣本店の看板ブランドになるに違いありません。

山縣本店は若い杜氏を中心に新しいステージへ

伝統を重んじながらも、革新の意志を込めて創業時のブランド「防長鶴」を復活させたことからもわかるとおり、山縣本店はさらなる躍進のため、その歩みを止めることはありません。「日本酒が2000年も飲まれ続けているのは、その時代時代に合わせて常に変化してきたから」、そう語ってくれた山縣社長からは、自身が「かほり」で革新をもたらしたように、若き杜氏をはじめとする蔵人たちによるイノベーションを心から期待しているのが伝わってきます。「何を守っていくのか。何を変えていくのか」。山縣本店の酒は、これからどんな進化を遂げていくのでしょうか。新しいおいしさに出会えるその日が、楽しみで仕方ありません。

「毛利公」

酒蔵の末っ子長男として生まれて

「4人続いた女の子の末、やっと生まれた男の子ですから、周りからは期待されていましたね。私が生まれた頃は酒蔵も景気のいい時代でしたから、『跡取り息子が生まれた!』と大騒ぎだったようです。」
山縣本店の末っ子長男として生まれた山縣さんは、幼い頃から周囲の大人たちに「山縣本店の跡取り息子」と認識されていたそう。しかし、両親の口癖は「好きなように生きなさい」。将来についてのプレッシャーはなく、きちんと躾けられはしたものの、伸び伸びと育っていったそうです。ですから、子どもの頃は酒蔵を継ぐつもりは全くなく、当時は酒が大嫌いだったといいます。
「酒臭い親父が酔っ払って大きな声を出したり、騒いだり…。子どもの頃はそんな姿が許せなかった。そもそも未成年だからお酒が飲めないし、好きになるわけがありませんよね(笑)。」
久米小学校、太華中学校、徳山高校と、小中高を周南市で過ごした山縣さんは、大学進学を機についに外の世界へ飛び出します。飛び出した先は東京、入学したのは慶應義塾大学商学部。尊敬する福澤諭吉が創立した大学で、商いについて学ぶことを決めました。
「もう戻ってこないぞ、という思いで出ていきました。たとえ両親から自由に生きろと言われても、徳山にいては敷かれたレールから逃れられない。周りからは当然跡を継ぐんだろうと言われていましたから。酒も相変わらず嫌いでしたしね。でも、大学進学を機に、大人が酒を好む理由が少しずつわかっていったんです。」

日本酒は伝統文化。酌み交わすことで絆が生まれる

大学に進学し、成人を迎えた山縣さんは、初めて酒の魅力を知ることになります。
「早慶戦の後なんて、ビールを30本くらいガブガブ飲んでいましたよ(笑)。仲間と酒を酌み交わすことの楽しさ、そこで深まる友情…、酒は日本人にとって人間関係の潤滑油だと知りました。日本酒の起源は縄文時代とも弥生時代ともいわれます。そこから今日に至るまで、先人たちもこうして酒を酌み交わし、コミュニケーションを図ってきたのですから、日本酒は日本人が和をなすために欠かせないツールだったんでしょう。日本酒こそが日本の文化の象徴なのだと、ここでやっと気づいたんです。」
山縣さんの酒へのイメージが変わったちょうどその頃、人生にも大きな変化が起こります。父親が大きな病を患ったのです。
「まだ在学中のことでした。山縣本店を継がざるを得なくなった私は、卒業後、日本有数の酒どころ兵庫県灘にある酒造メーカーに就職して2年間ほど修業し、家業を継ぐために徳山に帰ったんです。」
以前はあんなに抵抗した跡取りですが、その頃の山縣さんにもう迷いはなく、むしろ、「日本酒を守り続けたい」と熱い想いを抱くようになっていたといいます。

「日本酒業界の復権」を使命に挑戦を続ける

「私が山縣本店に入った約50年前の1974(昭和49)年、日本酒の出荷量は過去最大の980万石を記録し、全アルコール飲料の30%以上を占めていました。日本酒業界はピークを迎えていたんです。しかし、そこから先は衰退の一途を辿るのみ。全国各地の酒蔵の廃業はどんどん進み、もちろん山口県も例外ではありませんでした。当時、山口県には140近くの酒蔵があったんですよ。現在、酒造組合に加入しているのは24の酒蔵、周南市でいえば3つの酒蔵しかありません。」
衰退していく日本酒業界に危機感を抱いた山縣さんは、復権をかけて動き始めます。1984(昭和59)年、冷やして飲む生酒「かほり」を開発(「モノとコト」参照)。その後は海外市場に活路を求め、1996(平成8)年には、全国13の地酒メーカーと手を組んで輸出団体を設立し、共同でフランス・パリに日本酒バーを出店。2009(平成21つくるつくるつくる)年1月には全国の蔵元5社で共同出資し、米国向け地酒輸出会社「JCTOジャパン」を、9月には現地販売小会社「KURAMOTO US」を設立と、世界に向けて日本酒を発信します。

「私が輸出会社を立ち上げてから26年の間に、日本酒は世界的にポピュラーな酒になりました。もちろん、同じ山口県の酒『獺祭』の力も大きく影響しています。けれども、国内では相変わらず日本酒離れが進み、日本酒業界の衰退は止まりません。ただし、驚くことに山口県の酒は、コロナ禍に入る前の12年の間、連続で出荷量が伸び続けたんです。全国で唯一、山口県だけが伸び続けたのですから驚きです。」

生き残るために品質を追い求めた山口県の酒

日本酒の国内市場が縮小を続ける中、全国で唯一、出荷量を伸ばし続けた山口県の酒。その理由を山縣さんはこう語ってくれました。

「12年連続で伸び続けた理由は、若い蔵人たちが情報を共有しながら、それぞれが独自の路線で競い合ったことにあると思います。この『情報を共有する』というのが難しい。『何で山口県の酒蔵はみんな仲がいいのか?』と他県の酒造組合の方からよく言われますが、答えは単純なものです。非常に悪い時代を経験しているから、どうにかして山口の酒を売ろう、守ろうという同じベクトルのもと切磋琢磨してきたからなんです。」

また、小さいからこそ、高品質の酒をつくるしか生き残る手立てがなかったという事実も功を奏したといいます。

「大量生産できない小さな酒蔵は、手間暇かけて高品質の酒をつくり、味で競うしか生きる道がなかった。でも、それが逆によかった。なぜなら、世間からいわゆる大酒飲みが減り、いい酒を料理とのペアリングで楽しむ人が増えたからです。それには高品質な山口の酒がぴったりだったんですね。」

周南市の3つの酒蔵の今後に期待

山口県の若い蔵人たちの活躍に感心し、次なるイノベーションにも大いに期待する山縣さん。現在周南市にある3つの酒蔵への想いをお聞きしました。

「山縣本店は『防長鶴』、はつもみぢは『て、咲く』、中島屋酒造場は『紡』など、それぞれの蔵が伝統を守りつつ、新しいことにどんどん挑戦しています。古くからある業界の中で生き残っていくには、変えてはいけないものと、時代によって変えるべきものをきちんと識別し、その中で進化していかなければなりません。松尾芭蕉の言葉を借りれば、『不易流行※』ですね。これをまさに実践している周南の酒蔵3つには、これからの日本酒業界を担う存在として大変期待しています。」

「吉田松陰が本州の西の端の小さな松下村塾から日本を変えたように、周南で日本酒復権の狼煙を上げるんだ」、そう心に決めて立ち上がってから半世紀を超え、やがて若い世代を応援する立場となった山縣さん。実は酒以外にも尽力したものがありました。それは、「教育」です。

※不易流行…伝統を踏まえつつ、一方では新しいものを取れることが大切だとする、松尾芭蕉が唱えた俳諧の理念の一つ。

「生き抜く力」を山口の子どもたちに伝えたい

2008(平成20)年、山縣さんは山口県教育委員に就任、2013(平成25)年には山口県教育委員長に就任します。

「60まで酒づくりしかやってこなかった私のもとに、当時の山口県の総務部長が訪ねてこられ、『教育委員をやってもらえないか?』とお願いされました。二井さん(当時の県知事)からの推薦だと。もちろん二井さんとは顔見知りでしたが、教育の話なんてしたことがない。突然のことで大変驚きましたね。」

酒づくりを通じてさまざまな経験をした山縣さんは、若い世代の育成、教育の大切さをひしひしと感じていたこともあり、教育委員の就任を快諾。そして、教育委員長時代、山縣さんは、山口県の教育振興基本計画の中に「生き抜く力」という言葉を盛り込みました。その理由は、自身が厳しい日本酒業界を生き抜いてきた経験から、子どもたちにも生き抜く力を培ってほしいと考えたからです。

「47都道府県で42位、43位あたりだった山口県の日本酒が12年連続で出荷量を伸ばし続け、10位くらいに浮上するようになったんです。それはまさに『生き抜く力』があったからこそ。振り返れば、山口県は幕末の日本に大きな影響を与えた場所。ですから、ここから世界を変えることだってできるはず。その昔、吉田松陰が若者を導いたように、私も私自身が得たものを伝え、導いていきたいと、その想いを込めました。」

工夫しながら遊んだ子ども時代。歴史ある酒蔵にもたくさんの思い出が

山口県の酒、山口県の教育に長年情熱を燃やしてきた山縣さん。現在は次世代へのバトンタッチを徐々に進め、生まれ育った大好きな周南市でのんびり過ごすことを目標にしているそう。山縣さんに子どもの頃の思い出を話していただきました。

「人見知りをする大人しい子どもでしたよ。酒蔵で一人で遊ぶこともありました。山縣本店の蔵は築150年を超えます。一部は遠石八幡宮のすぐ下にあった250年前くらいの蔵を移築したもので、お祭りのときなんかは、芝居小屋として使っていたそうです。歌舞伎を招いたり、ラテンのコンサートを開いたこともありますよ。酒蔵は、今も現役で酒をつくってくれる場所でもありますが、私にとっては思い出がたくさん詰まった場所でもあります。」

もちろん、日頃は近所の子どもたちと遊んでいたそうです。今とは違い、特別な遊び道具もゲームもない時代。ボール一つを道具に、みんなで考え、工夫しながら遊ぶ日々だったといいます。

「何もないながらも楽しかったですね。それに、周南市は海も山もありますし、すぐ近くには広場もあって、遊ぶ場所には困りませんでした。今思えば、そんな環境で育ったからこそ、自然な流れで想像力やたくましさが身についたのかもしれません。」

子どもの頃は周南市に対する愛着はさほどなかったという山縣さん。一旦周南市を出てよその土地で暮らしたことで、初めて周南市の良さを理解したそうです。

周南市の魅力は「程よい」ところ。「食」も充実!

「二度と帰るもんかと飛び出した周南市ですが、東京、灘での暮らしを終えて帰ってみると、穏やかで静かでほっとしたんです。都会はやはり人混みが多く落ち着きません。周南市は、適度に人がいて、適度にまちが賑わっていて、交通の便もいい。大都会でも、ものすごい田舎でもないところが周南市の魅力だと思います。」

コロナ禍以前、月に3回は東京に出張していたという山縣さんは、移動手段には飛行機ではなく、あえて新幹線を利用していたといいます。

「移動時間は新幹線で4時間20分くらいで、その間は大体読書をしています。一人時間を確保するのにちょうどいい距離なんです。新幹線にすぐ乗れるのはやっぱりいいですよね。東京はすごく近い感覚です。」

「都会より周南!」、そう思わせるもう一つの理由として、山縣さんは「食」の素晴らしさも挙げます。

「周南市はとにかく食べ物がおいしい。特に小魚は最高です。東京だとアジかトロばっかりになっちゃう(笑)。もちろん高級料亭に行けば何でもありますが、周南市はスーパーでも十分においしい魚に出会える。『食』は周南市の宝ですよ。酒を堪能するのにぴったりなまちです。」

とにかくやってみること。周南市の未来は若者に託したい

「周南市は工業のまち。これはこれでいいし、財政を下支えしてくれている」、そう語り始めた山縣さんは、周南市の現状と課題、将来について考えを述べてくれました。

「ただ、大企業や工業を中心に置く発想で、中小企業や商業へのフォローがまだまだ足りないと感じるんです。もちろん、財政の面でも雇用の面でも大企業や工業を守り続けることは大切ですけど、零細企業だって頑張っている。山縣本店という小さな酒蔵が冷酒というイノベーションを起こしたように、小さな企業が大きな力を発揮する可能性は十分にあるんですから。」

山縣さんが大学生の頃、ちょうど学生運動が盛んな時期で、在学中の2年間は学園祭が開催されなかったそうです。2年越しに開催された学園祭のテーマは「日常性の中に狂気を」。そのフレーズは山縣さんの心に響き、今でも胸に刻まれているといいます。

「学園祭のテーマに触れたとき、普通のことをやっていたのではいずれダメになるんだろうと思いました。常に挑戦すること、変えていくこと、そういう気持ちを持たないといけないんだろうと。そういった気持ちは若い人ほど持ちやすい。歳をとるとだんだん『まあいいや』ってなっていくんです。だから、周南市の若者には新しいことにどんどん挑戦してほしい。そして、私たちは若者が挑戦したくなるまち、挑戦できるまちをつくっていかないといけないと思っています。」

お気に入りは周南緑地公園の景色。思い出深いのは太華山からの眺望

周南市を愛し、周南市の未来に夢を馳せる山縣さんに、お気に入りの景色をお聞きしました。

「この30〜40年間、毎朝、周南緑地公園を1時間歩いているんです。だからあの周辺が一番馴染みがある景色ですね。」

もう一つ、思い出深い景色をお聞きすると、「太華山から見る瀬戸内海」との回答が。「今は滅多に行かないですけど…」と、懐かしそうな、けれども少しだけ寂しい表情をしながら、忘れられないエピソードを語ってくれました。

「もう30年くらい前ですかね。大学の後輩がふらっと会いに来てくれて、一緒に太華山に登ったんです。彼は岐阜県の出身だったから海が見えないんだと言って、二人で広くて穏やかで美しい瀬戸内海を眺めました。」

太華山からの眺めは、与謝野鉄幹が歌を詠んだほどの絶景。「一緒に眺めた後輩は病を患い、もう会えなくなってしまった」と山縣さんは続けます。

「一生忘れられない景色ですね。必死に生きなければならないと思わせてくれる景色でもあります。私は福澤諭吉と同じくらい吉田松陰を尊敬していますが、松陰が友人に宛てた手紙の中に『鞠躬力を尽し死して後己むのみ』と書いているんですね。志を持ったら成し遂げるまでやれという意味で、あの景色を見ると、その言葉も一緒に思い出します。生きている限り、必死になろうと。」

「もう75歳だからいろんなお役目から解放されたい(笑)」という山縣さんですが、お話を聞く限り、解放されるその日はまだまだ先のことのように感じられます。むしろ、若者を支え、導く立場となって、まだまだ活躍する山縣さんの姿が容易に目に浮かびます。酒づくりと周南市、山口県とともにこれまでを駆け抜けてきた山縣さんの「これから」を追い続けていきたい、そう思わせられた貴重なインタビューとなりました。

株式会社 山縣本店さんのお酒は、周南市ふるさと納税でもお申し込みいただけます。

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株式会社 山縣本店
〒745-0801 山口県周南市久米2933
TEL :0834-25-0048
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