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ピュアな人柄と愛らしい芸風が魅力! 周南市出身のお笑いタレント。

お笑いタレント|いかちゃん

1996年、周南市生まれ。プロダクション人力舎所属のお笑いタレント。徳山駅から徒歩10分の「魚屋と食事処 いかざき」の長女として生まれ、おいしい魚が当たり前にある環境で育つ。料理人もしくは料理に携わる仕事に就くため山口市の中村女子高等学校調理科に進学したが、芸人になる夢も諦められず、卒業後に上京し、プロダクション人力舎が運営するお笑い芸人養成スクール「スクールJCA」に入学。スクールJCA卒業後、プロダクション人力舎に所属し、現在に至る。人力舎若手お笑いライブ「どっきん!」ほか、テレビ東京「ゴッドタン」、テレビ朝日「ロンドンハーツ」など数々の人気テレビ番組に出演。日本テレビ「所さんの目がテン!」の準レギュラーも務める。趣味は料理(高校時に調理師免許を取得)、打楽器演奏、カップソングなど。2024年3月、「しゅうなんおさかな大使」に就任。

今回お話をうかがったのは、プロダクション人力舎所属のタレント、いかちゃん。クスッと笑いを誘うほのぼのとしたネタ「カップソングでいいとこ言う」で愛される、周南市出身のお笑い芸人さんです。


小さい頃の夢は「ご飯屋さん」。

周南市の名店「魚屋と食事処 いかざき」を営む両親のもとに誕生したいかちゃんは、手際よく魚を捌いておいしい料理を作りつつ、常連客と楽しそうに会話しながら生き生きと働く両親の姿を見て育ちました。また、食卓には両親が手作りした魚料理が毎食必ず登場していたと言います。

「我が家の食卓にはいつも新鮮な魚が並んでいました。今思えばすごくぜいたくな暮らしですよね。まあ、肉料理はあまり登場しませんでしたけど(笑)。おやつも父親が魚の骨を油で揚げた骨せんべい。バリボリ食べていたおかげで、すっかり骨太になりました。転んでも骨折しないくらい、丈夫な子に育っています。」

そんな環境もあってか、自然と食べることが大好きになったと言ういかちゃんは、将来、料理人になること、そして、自分のご飯屋さんを開くことを夢見るようになったそうです。

「食べることは大好きだし、両親のお店はいつも温かい雰囲気に包まれているし、私も将来はご飯屋さんをやりたいなって。でも、中学の頃、人を笑顔にする喜びも知ってしまったんです。」

もう一つの夢が見つかった中学校の文化祭。

中学の頃から、いかちゃんはもう一つ夢を抱くようになります。それは、現在の職業でもある芸人になること。きっかけは全校生徒の前で行った文化祭のステージ発表でした。

「6人くらいで集団コントをすることになって、割と目立つ役をやらせてもらいました。いざ全校生徒の前で披露すると、びっくりするくらいみんなが笑ってくれてめちゃくちゃ盛り上がったんです。それで、『え!? こんなに人を笑顔にできるものがあるんだ!』って衝撃を受けました。その時に改めて芸人という職業の尊さを実感し、自分もやってみたいって思いました。」

けれどもいかちゃんは「私がなれるはずない」と料理の道へと進みます。

「中学3年になり、高校卒業と同時に調理師免許が取得できる中村女子高等学校調理科への進学を決めました。芸人への憧れはありましたが簡単になれるものじゃないと思ったので、料理人になる夢を叶えようと。実際、料理の勉強は楽しかったし、ちゃんと資格も取れたし、この選択に間違いはなかったです。」

先生を困惑させた「芸人になりたい」宣言。

高校の3年間、いかちゃんは周南市の実家から山口市にある高校まで電車で通っていました。普通科目の勉強と調理科の勉強、それに加えて部活動をこなすという多忙な高校生活だったそうです。けれども、文化祭や体育祭など学校行事の際にはみんなを笑顔にしたいと積極的に前に出ていたのだとか。

「基本は真面目ちゃんなんですけど、イベントになると率先して人前に立つから友だちにも先生にも驚かれていました。でも、みんなが笑顔になるのが嬉しくてやめられませんでしたね。」

高校3年生の秋、調理科のクラスメイトが飲食関連業界に就職したり、料理や製菓を専門に学ぶ学校に進学する中、いかちゃんはついに担任の先生に「芸人になりたい」と打ち明けました。

「学校行事でみんなの前に立つたびに、『どうしよう、やっぱり楽しい。やっぱり芸人になりたいかも。…芸人になりたい!!!』ってだんだん気持ちが抑えられなくなって、思い切って先生に相談しました。めっちゃ困惑していた先生の顔はいまだに忘れられません(笑)。調理科の生徒たちはそもそも料理関係の何かを目指してうちの高校に入学していますから、別の進路を希望することだけでもレアケース。しかも芸人ですよ? そりゃ戸惑いますよね(笑)。」

芸人を目指す生徒を指導するのは、先生にとってはもちろん、学校にとっても初めてのことだったそう。けれども先生はいかちゃんの本気を正面から受け止め、どうやったら芸人になれるのかを一緒に模索してくれたのです。

「インターネットでいろんな事務所を調べ、目に止まったのがプロダクション人力舎でした。ホームページからやさしい雰囲気、楽しそうな雰囲気が伝わってきて、ここに入りたいなと。それでスクールJCAの資料を取り寄せ、学校に持って行きました。」

先生は丁寧に資料に目を通してくれ、プロフィール作成なども一緒に取り組んでくれたのだそう。

「この時、先生が真剣に向き合ってくれなければ今の私はなかった。生徒が諦めない限り、先生が支えてくれる、生徒一人ひとりを見てくれるいい学校に入ったなと改めて思いましたね。」

父親に告げず、こっそり行ったオーディション。

芸人になりたいと相談したのは母親のみ。父親にはどうしても言えなかったといかちゃんは言います。

「反対されるのがわかっていたので、父には言えなかったですね。実際、母も大賛成というわけではありませんでしたから。だから、友だちの家に泊まりにいってくる、くらいのことをさらっと伝え、こっそり夜行バスで東京に行ってオーディションを受けたんです。スクールJCAはその場で合否が出るので、合格と聞いた時は本当に嬉しかったです。その足ですぐに住む場所を探しに行き、家も決めて帰りました。12時間くらいの間に事務所も家も決めたことになります。」

いかちゃんが父親に報告したのはそれから数日が経ってから。予想通り、猛反対されたのだそう。

「ずっと周南市で家族と一緒に暮らしてきた娘が突然東京ですからね。しかも芸人って(笑)。長女だし、弟はいるけど娘は一人だし、『やれるわけない!』って猛反対でした。でも最後は『もう決めてきたから行かなきゃいけない』って無理やり納得させての強行突破です。父にも母にも心配をかけました。」

いつの間にか周りがみんな応援体制に!

高校を卒業後、住み慣れた周南市を離れて、東京にあるスクールJCAに入学したいかちゃん。「このスクール時代が一番辛かったかも」と当時を振り返ります。

「ずっと実家で家族と一緒に暮らしていたのが急に一人になり、誰も知り合いがいない状況の中、完全にホームシックになりました。最初の頃は母にしょっちゅう電話していましたね…。でも、だんだん仲間ができて、自分でもびっくりするくらいホームシックは解消されちゃいました(笑)。」

ただし、父親とはあまり連絡を取ていなかったそう。

「特にスクールJCA時代は、父とはあまり連絡を取っていませんでした。父との溝が埋まり始めたのは、卒業後、プロダクション人力舎への所属が無事に決まってしばらく経って、少しずつテレビに出られるようになった頃です。いつからか店に写真とか雑誌や新聞に掲載された記事とかを貼ってくれるようになって、今では完全に応援体制です。常連さんも地域の方もみんな応援してくれて、本当にありがたく思っています。」

黄色いシャツに蝶ネクタイ、サスペンダー付きのパンツで、フリップネタやカップソングを披露するいかちゃんは、元来のほのぼのとしたピュアなキャラクターも愛され、注目される存在に。事務所の先輩のドランクドラゴンからは「ポテンシャルの塊」と評されたことも。

「全く辛くないと言ったら嘘になりますが、芸人を辞めたいと思ったことはありません。『やばい!やばい!』って焦る時もありますが、もともとポジティブな性格なので『頑張らなきゃ』って持ち直すことができるんです。でも、そう思えるのは応援してくれる方々のおかげ。TikTokやYouTubeにダイレクトにメッセージをくださる方もいて大きな励みになっています。」

大事なのは諦めないこと。日々考え、努力を惜しまないこと。


「たとえ反対されても、やっぱりやりたいって思ったらやった方がいい。一度は周囲の反対に負けてしまったとしても、後からどうしてもまたやりたくなったら、その時こそやればいい。とりあえず、やりたい気持ちがあるなら一個一個挑戦していくべきかなって思っています。」

「自分は両親に心配をかけた悪い例だけど」と前置きしながらも、自身の経験から、いかちゃんは諦めないことの大切さを語ってくれました。

「今思えばものすごい行動力だと思います。人生においてあれほどの行動力を発揮する場面なんてもう訪れないんじゃないかな。先生に打ち明けて、自分で事務所を探し、両親に黙ってオーディションを受けに行って…、あの時の自分をめちゃくちゃ褒めたいですね。だから、やりたいことがあるなら、それをやってみるべきだし、やりたいことがないなら、少しでも興味があることをひたすら楽しんでみればいいと思う。諦めたり、何もしないのはもったいない。何かをしなければ、何も始まらないですから。」

芸人になる過程で「諦めないこと」の大切さを学んだいかちゃん。もう一つ大切にしないといけないことは、「努力すること」と言います。

「ドランクドラゴンの塚地さんが『考えることと努力は日々惜しまない方がいい』とおっしゃってて、その言葉を胸に刻んでいます。あんなに活躍されている方でも常に努力することを意識されているんだから、私はもっと頑張らないと。たまにだらけてしまうんですけど、そんな時は『あ、やばい! 今だらけてた!』と慌てて自分に喝を入れています(笑)。」

YouTubeや料理関連イベントなど精力的に活動。

現在、いかちゃんはお笑いライブやテレビ出演に加え、YouTubeや得意な料理を活かしたイベントなど精力的に活動しています。

「YouTubeは『トコトコ!いかさんぽ!』というチャンネルを開設して、地道に動画を上げています。定期的にアップしたいんですけど、自分で撮って自分で編集しているのでなかなか難しくって。周南市のこともちょくちょくアップしています。一人でも多くの方に周南市のいいところが届いていると嬉しいですね。実家のお店で私が調理する様子などもあるのでぜひ見てみてください。」

実はいかちゃん、料理人になる夢、ご飯屋さんを開く夢も諦めてはいません。諦めるどころか、大きく膨らみ続けているそうです。

「変わらず料理は大好きです。今はシェアハウス暮らしで、料理は基本的に私の担当です。去年はキッチンカーを借りて2回イベントをしましたし、店舗を間借りしたご飯イベントもしました。将来はご飯屋さんを開きたい。理想は芸人さんがアルバイトできるご飯屋さんです!」

芸の道はやはり険しく、特に若手の芸人はほとんどがアルバイトをしながら活動しているのだそう。そんな若手の力になればとご飯屋さん構想は広がっていきます。

「若手の芸人はアルバイトをしないと食べていけません。実際、私は今もアルバイトをしています。なので芸人をアルバイトとして雇うご飯屋さんを開きたくて。できれば時給も高めにして、少しでもお笑いに集中できる環境を整えてあげられたらって思っています。」

失敗しない人生なんてない! これからも挑戦し続けたい。

「これから」について尋ねると、いかちゃんは真っ直ぐな目で答えてくれました。

「実は、芸人としての一つの目標だった『地元で仕事をする』と言うのは『しゅうなんおさかな大使』になれたことで達成できました。今は、月に一度は必ず周南市で仕事でき、こんなにありがたいことはありません。」

いかちゃんは2024年3月に「しゅうなんおさかな大使」に就任し、周南地域の魚に関するイベントの出演や情報・魅力の発信を担い、周南市の漁業や地域を盛り上げるために活動しています。
そして、東京と周南市を行き来する中、新たな目標を見つけたと言います。


「周南市をもっとたくさんの人に知ってもらう、これが新しく加わった目標です。そのためにはもっともっとテレビに出て今よりずっとお茶の間の人気者にならないといけません。私を知ってもらうことが、周南市を知ってもらうことにつながると思うので。今は周南市出身と言うと『周南市ってどこ? 山口県なの?』と言われることも少なくありません。『周南市? ああ、あそこのことね!』って言ってもらえるくらい、皆さんの中で周南市が当たり前の存在にできたらいいな。」

年々、芸人として、一人の人間として輝きを増すいかちゃん。これからのさらなる活躍が楽しみです。

生まれてから高校を卒業するまでずっと周南市。




周南市で生まれ、保育園も小学校も中学校も周南市、高校は周南市から山口市まで電車で通っていたといういかちゃんは、生粋の周南っ子。子どもの頃の思い出の舞台はほぼ周南市と言います。ただし、飲食店を営む両親を持ったため、家族みんなで遊びに行った記憶は数少なく、家族とのコミュニケーションの場はほとんどが両親の店「魚屋と食事処 いかざき」だったそうです。

「学校から帰ったらお店に行く、そんな子ども時代を過ごしました。お店の常連さんにすごく可愛がっていただいて、相手してもらったり、一緒にご飯を食べてもらったりと本当にお世話になりました。周南市の皆さんの温かさを肌で感じながら育ったと言ってもいいくらいです。」

どんな子どもだったのかと尋ねると、「活発な子!」と即答。外を走り回っていたそうです。

「完全に外で遊ぶ派でした。休みの日も学校のグラウンドに行って遊んでいたくらい。ただ、小学2年から吹奏楽を始めたので、そこからはもう練習の記憶しかないです。お店が唯一日曜だけ休みだったんですけど、その日も演奏会で潰れたりして。でもよく両親揃って聴きにきてくれて、それはすっごく嬉しかったですね。」

「それでも」と絞り出してくれたのは、親水公園での思い出でした。いかちゃんの家族と近所の家族と一緒にやったBBQや、父親と二人でやった釣りは今も忘れられないそう。

「BBQには各家族で食材を持ち寄るんですが、うちはもちろん魚介担当。みんなでわいわい楽しかったな。父との釣りもすごく覚えています。父が釣り針に餌をつけ、私は竿を垂らすだけ。かかったら引き上げて『お父さん、釣れたよ〜!』って魚を外すのは父の仕事。楽させてもらってました(笑)。」


生まれ変わったらやってみたい「学校帰りの寄り道」。

いかちゃんは、吹奏楽部の朝練に参加するため、毎朝始発に乗って高校に通っていたそう。放課後も部活があるため、帰りはほとんど終電に乗車。片道1時間半の通学で、徳山駅に着く頃にはもうほとんどの店が閉まっていたと言います。

「小学、中学とパーカッション(打楽器)だったんですが、高校からはチューバを吹くことに。人一倍練習する必要があったから、朝練も放課後の練習も欠かさず参加していました。学校帰りに友だちがクレープやファーストフードを食べたり、カラオケに行くのをいつも羨ましく見ていましたね…。だから、生まれ変わったら高校の帰りに寄り道したいんです! 今だったら徳山駅周辺には図書館もあってスタバもあって、これからさらに開発が進んでもっともっと賑わうんでしょう? 今の周南市の高校生はめっちゃいいですよね!」

現在は月に一回は必ず周南市に帰省するいかちゃん。仕事を終えて新幹線で東京に戻る際、少しだけ早めに徳山駅に行き、周辺でのんびりするのが恒例だそう。

「スタバでコーヒーを飲みながら、今の高校生たちの放課後をついつい想像しちゃいますね。キラキラしてるんだろうなって。私が学生の頃はまだ何もなくて、テスト期間中は駅の構内の一角で勉強していました。手がかじかむあの冬の寒さは今も忘れられません。」

家族でよく行ったのは「洋食の店 アラスカ」。出前なら「北京飯店」。

両親が店を営み、自身は小学から高校までは吹奏楽に没頭…と、とにかく家族との時間がなかなか取れなかったといういかちゃんですが、家族で囲んだ懐かしい味はしっかりと覚えているそうです。

「お店が休みの日曜の夜は家族で外食することもありました。よく行っていたのが『洋食の店 アラスカ』です。多分ハンバーグとかエビフライが人気なんでしょうけど、私が大好きだったのはポタージュスープ。とにかく大好きでおかわりもしていました。好きすぎちゃってメイン料理が来る前にお腹いっぱいになっていましたね(笑)。」

思い出の味はもう一つ、それは、中華料理店「北京飯店」の料理だそう。こちらは出前注文し、自宅で家族と楽しんだと言います。

「毎日魚料理じゃいけないと親も考えたんだと思います。北京飯店は出前ができて、確かお皿も回収しに来てくれていたような…。いろんな料理がおいしいんですけど、私のナンバーワンはビーフン。懐かしいな〜!」

楽しそうに思い出の味を語るいかちゃんですが、周南市のおすすめのグルメを尋ねると、「実家の味!」ときっぱり。やはり両親の作る料理が一番なのだとか。

「いかざきのネギトロ丼は必食です。サイドにフライを付けたらもう最強ですよ。おすすめはエビフライです。あとはブリのカマの塩焼き。ブリ大根も絶品で、今でも好きな食べ物は何かと聞かれたらブリ大根って答えます。それとタコの刺身もめちゃくちゃおいしいです。父の茹で具合は本当に最高で、常連さんからもいかざきのタコの刺身が一番おいしいって言ってもらっています。」

「周南市はとにかくおいしい!」といかちゃん。都内でイベントをする時には、必ず周南たこを使った一品をメニューに加えているのだとか。お酒はあまり得意ではないそうですが、少しずつ周南市の地酒のおいしさもわかってきたんだそうです。

東京が拠点になった今、改めて実感する周南市の良さ。

高校を卒業後、18歳で上京したいかちゃん。周南市以外の場所で暮らすのは初めてのことでした。そこで、「離れてみて気がついた周南市」について聞いてみました。

「まず痛感したのは、周南市がほっこりとしたやさしいまちだということ。当たり前のことと思っていましたが、温かい人たちばかりだったことに気付かされました。東京で暮らしてみて、そもそも人と話す機会がぐんと減り、周南市ではいつも声を掛け合っていたなと。両親の仕事柄、漁師さんと話すことも多かったんですけど、一見、コワモテでも話してみるとすっごくやさしくて思いやりがあって面白くて…。方言のせいで少し言葉はきつく感じるかもしれませんが、周南市を訪れた際にはぜひいろんな人と話してみてほしいと思っています。」

ほか、コンパクトに揃っていて不便がなく、駅前のように賑やかな地域もあれば、自然が豊かでのどかな地域もあるのが魅力と言います。

「改めて見渡してみると実はなんでも揃っていて、賑やかな都市部もあれば田舎もある、ちょうどいいまちだなって感じます。新幹線の乗車駅があるので、東京までもすぐですし。そうそう、徳山夏まつりや冬のツリーまつりなど、駅前でこんなに大々的に祭りをやる地域って珍しいんじゃないかなとも思います。アクティブなまちであり、ほっこりもできるまち。夜景でも知られるように美しいまちでもある。うーん、一言で言えば『欲張りなまち』ですね!」

いかちゃんが上京してから早10年。この間、いかちゃんの目に映る周南市はどんどん変わったそうですが、「いかちゃんの中の周南市」は少しもぶれず、変わらないそうです。

「周南市は私にとってまち全体が『実家』。帰る場所です。徳山駅前は帰るたびに何かが新しくなっていて、これからもきっと変わっていくんだと思いますが、私の中の位置付けは変わることがないと思います。ただ、新しくなる一方で昔ながらのお店が閉まっちゃったりすると、やっぱり少し寂しいですね。希望としては、昔ながらのお店や風景も残しつつ、若者向けのものも取り入れながら発展してほしいです。」

山口県の仕事をもっと増やして周南市にもっと帰りたい!


「東京にお仕事があることはめちゃくちゃ嬉しくてありがたいですが、周南市に住みながらお仕事ができたらもっといいなと思っちゃいます。やっぱり落ち着くんですよね。」

いかちゃんは周南市に帰るたび、家族や店の常連客、友人、恩師などたくさんの人に囲まれ、その温かさを身にしみて感じているそう。そして、「いつかまた周南市に住みたい」という思いはずっと胸にあると言います。

「周南市を拠点とするなら、もっともっと山口県のお仕事を増やさないといけないし、山口県でできることも見つけていかないといけない。ただ、『しゅうなんおさかな大使』に就任したことで、一歩前進できたかなと。故郷に恩返しというか、私にできることが一つ見つかったという思いもあります。」

一昨年、昨年と母校である中村女子高校では凱旋公演も果たしたそう。恩師からの声かけに「感謝しかない!」と言います。こんなふうに、山口県、周南市で紡いできたこれまでのご縁を大切にし続ける姿勢も、いかちゃんがみんなに愛される理由の一つです。

「山口県、周南市のたくさんの人に支えてもらって今の私があるので、いろんな人に周南市を知ってもらうこと、その魅力をわかってもらうこと、それと、周南市の子どもたちに夢を諦めないことの大切さ、努力することの大切さを伝えていくのが私の使命かなと。言葉にするとちょっと壮大な感じもしますけど、近道はきっと真摯にお仕事に向き合うことだと思っています。」

「芸人としてもっと活躍し、大好きな料理も続け、いつかは周南市に住みたい」。たくさんの夢を語ってくれたいかちゃんの表情は生き生きとし、また、真っ直ぐに前を見つめ、キラキラと輝いていました。そして、それと同時に周南市への深い深い愛情を感じるインタビューとなりました。

記事:藤井 香織 / 写真:川上 優
執筆時期:2024年8月
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