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地元にあたたかく育てられて今がある。2022ミス日本「海の日」属 安紀奈さん

地元にあたたかく育てられて今がある。感謝の心を忘れずに、個性を尊重できる人を目指したい。

属 安紀奈さん

1999年、山口県周南市生まれ。周南市立徳山小学校、周南市立岐陽中学校、山口県立華陵高等学校を経て、大妻女子大学文学部に進学。大学3年生からモデル活動をスタート。大学4年生のとき、第54回ミス日本コンテスト2022において、約2,500人の応募の中からファイナリスト11名に選出され、およそ4カ月間にわたる勉強会を経て、2022(令和4)年1月24日の最終審査で見事2022ミス日本「海の日」を受賞。一昨年もファイナリストに選ばれており、今回の挑戦は2回目。趣味はオシャレな人を見つけること、ピラティス。特技は体力づくり。座右の銘は「みんなちがって、みんないい」。

ミス日本コンテストとは

ミス日本コンテストは、「日本らしい美しさ」を磨きあげ、社会で活躍することを後押しする日本最高峰の美のコンテストです。「ミスコン」と聞くと、外見の美しさばかりに注目しがちですが、ここでいう美しさとは、容姿だけでなく、心の持ちようや社交性といった幅広い人間性も含まれます。また「日本らしい美しさ」とは、「内面の美・外見の美・行動の美」の3つの美を備えることを基準としています。

このコンテストの大きな特徴は、「育成」の側面が強いこと。毎年全国で予選が行われ、8月までに11名程度のファイナリストが選ばれます。そして10月から翌年1月までのおよそ4カ月間にわたり、教養やスキルを磨く勉強会およそ30講座が無償で提供されます。ファイナリストたちは、外見はもちろん教養などの内面を磨きながら、それぞれの夢を実現するための実力を磨いていきます。

ミス日本コンテストの歴史

ミス日本は、日本において最も古い歴史をもつコンテストです。はじまりは太平洋戦争終結後の1950(昭和25)年。当時の日本は、衣食住のすべてが不足しており、子どもたちの多くが栄養失調で苦しんでいました。それを救ったのは、アメリカの「Licensed Agencies for Relief in Asia(アジア救援公認団体)」から送られてきた脱脂粉乳などの食料や衣類。それらは団体の頭文字をつないで「LARA(ララ)物資」とよばれました。その人道的な行為に対して感謝を伝えるための、日本とアメリカの友好親善を図る女性親善大使を選ぶことを目的に行われたのがミス日本コンテストの始まりです。初代ミス日本コンテストのグランプリに輝いたのは、昭和の美人の代名詞として知られる女優・山本富士子さん。彼女のもつ「柔らかさの中に秘められた鋭さとゆるぎなさ」「凛とした気品」は日本女性の美の基準となりました。

その後、コンテストは一時中断した時期があったものの、日本に活気が満ちてきた1967(昭和42)年に復活。1970(昭和45)年の大阪万博開催に当たっては、岸信介元総理の親書を持って各国を訪れ、万博成功への道をひらく一助をミス日本が担いました。

周南市からミス日本「海の日」誕生!

ミス日本コンテストは、グランプリ以外にも「水の天使」「みどりの女神」「ミス着物」などいくつかの賞があり、受賞者は1年間、それぞれの役割に沿った発信や啓蒙活動を行います。その中の一つ、ミス日本「海の日」は、海の日が祝日になった1996(平成8)年に創設されました。7月の海の日を中心に、海洋関連イベントや安全啓発のシンボルとしても活動しています。

今回、2022ミス日本「海の日」に選ばれた属 安紀奈さんは、なんと山口県周南市出身! この春、大学を卒業してモデルとしても活躍中です。

「周南市の港。徳山下松港が開港100周年を迎えた年に、ミス日本『海の日』に選んでいただけたことに、とてもご縁を感じています。島国日本で、海運・海洋業界が重要な役割を担っていることをお伝えしていくとともに、海に囲まれた山口県・周南市の魅力も発信していきたいです。子どもたちにもぜひ海に興味を持ってもらえたらなと思います」と意気込みを語ってくださいました。

属さんは2022年5月1日に周南市文化会館で行われる「徳山下松港開港100周年記念コンサート」に出席の予定です。ぜひ今後の活動に注目ください!

高校時代までを周南市で過ごした属 安紀奈さん。取材班と一緒に、母校である岐陽中学校を訪れました。子どもの頃の思い出、ミス日本コンテストに挑戦した想い、大人になった今、故郷に感じることなど、母校の教室でたくさん語っていただきました!

中学校時代の一番の思い出

「尊敬する友達が『一緒にやらない?』と誘ってくれたのをきっかけに、思い切って生徒会に立候補して、1年間書記長を務めました。毎日、給食を食べ終わると生徒会室へ直行。忙しくも充実した日々でした。」

久しぶりに母校である岐陽中学校を訪れた属さん。生徒会室に入ると当時の記憶がよみがえります。

教室で中学時代を振り返る

「印象に残っているのは校内合唱コンクール。有志で朝練を企画しました。みんなそれほど乗り気じゃないのかなと思っていたら、ほぼ全員の生徒が参加してくれてビックリ。本番も大いに盛り上がりました。文化祭では執行部が中心となって影絵を披露。夜遅くまで学校に残って準備しました。学校新聞もポップなイラストで目立たせるなど自分なりに工夫をしていました。この教室ごとにぶら下がっている札も執行部のみんなで作ったんですよ。どれもこれも懐かしい思い出です。」


思い出の生徒会室

ミス日本へ初めてのチャレンジ

高校を卒業後、大学進学のために上京した属さん。大学1年生のとき、母親の勧めでミス日本コンテストに初挑戦。見事予選を勝ち抜き、ファイナリストに選ばれました。ファイナリストに選ばれた人たちは、およそ4カ月間の勉強会を通じて「自分は何者か」という問いにぶつかります。属さんも勉強会で多くのことを学んだようです。

「勉強会で自分のルーツをたどったとき、これまで多くの人に支えてもらってきたことを改めて感じました。また、いろいろな夢をもった女性が集まるので、自分が知らない世界を知ることで多くの刺激も受けました。初挑戦は残念ながら受賞にはつながらなかったものの、ミス日本コンテストに出会って大切なことに気づかされました。」

モデルとしての自分探し

大学3年生からモデル活動をスタートしている属さん。モデルになりたいと思うようになったのは小学生のとき。当時、よく読んでいた雑誌で活躍するモデルに憧れたそうです。

「みんなキラキラしていて本当に可愛くて、同世代とは思えないなって。洋服を選んだり、コーディネートを考えたりするのも好きだったので、いつか私もモデルの仕事をしてみたいなと思っていました。」

SNSでスカウトされて大学3年からモデル活動をスタート。学業に専念しながらモデルとしての奮闘が始まりました。

「モード誌が好きだったので、モード系の服が自分に似合うと思い込んでいました。でも、モデルの仕事をするうちに、自分のことを理解できていなかったこと、“好き”と“似合う”は違うことを知り、軽い挫折感を味わいました。」

モデルは個性の世界。「なりたい」という気持ちだけでは続けられない厳しい世界です。属さんはモデルの仕事を経験したことで視野が大きく広がったようです。

「モデルは毎回初めてお会いする方と一緒に仕事をします。人見知りをする性格の私にとっては試練の連続でした。メイクさんやカメラマンさんと一体となって良い作品をつくるためには、いかに現場で良い雰囲気をつくれるかどうかが重要。明るくポジティブな心持ちで現場に臨むようになりました。また、過酷な現場での撮影もあるため、体力づくりにも取り組むようになりました。」

モデルとしてもっと成長したい。その気持ちはミス日本コンテストの2度目のチャレンジにつながっていったようです。

地元の応援に支えられて 2度目のチャレンジへ

属さんを2度目の挑戦に突き動かしたのはそれだけではありません。家族をはじめ、たくさんの地元の人々の応援もありました。

岐陽中学校生徒から祝福される属さん

「コロナ禍で大学の授業がオンラインになり、半年ほど周南市に帰省しました。そこで、改めて感じたのが地元の人々のあたたかさです。受賞できなかったにもかかわらず、みなさん私の挑戦を喜んでくださって、とても感激しました。そして将来、地元のために活動することが、自分の一番やりたいことだと思うようになりました。」

そして、大学4年生で再びミス日本にチャレンジ。見事ファイナリスト選出を果たしました。

「勉強会に参加するなかで、他のファイナリストと比べて自分が成長していない気がして…。泣きながら母に相談したこともあります。母とはお互いに隠し事をしません。良いことも悪いこともすべて話します。『今日は楽しくなかった』と言うと、『そういう日もあるよね』とネガティブな気持ちも尊重してくれて、どんなときも自分の気持ちに正直にいることができました。家族だけでなく、一昨年のコンテストに出場したときの同期、地元の友人など、たくさんの方からの応援も励みになりました。おかげで最後まで乗り切ることができました。」

岐陽中学校校長と卒業アルバム観賞で話が盛り上がります

ミス日本の大舞台で 自分らしいメッセージを発信

属さんには年の離れた姉・兄がいます。特に、15歳離れた障害を持つお姉さんの存在も大きかったようです。

「物心ついたときから姉の障害についてはなんとなくですが理解していました。でも、両親は姉を特別扱いすることはなく、障害があることをオープンにしていました。私も障害のある方と一緒にイベントに参加したり、ケンカをしたりしたことも。誰に対しても同じように接するのが当たり前だと思って育ちました。」

障害の有無に関係なくお互いを尊重し合う。そんな考え方が自然に身についたようです。

「コロナ禍でなかなか再就職先が決まらず、自信をなくしかけていた姉の姿を見て、何かできることはないだろうかと考えるように。せっかくミス日本コンテストという大舞台に立てるのなら、自分らしいメッセージを発信したい。多くの人が自分の良さを生かして、自信をもって関われる社会にしたいと思いました。」

金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」の詩のように、それぞれ違う一人ひとりが、お互いを認め合い、尊重し合う社会にしたい。大きなテーマを掲げて2度目のミス日本コンテストに挑んだ属さん。ついに努力が実を結び、2022ミス日本「海の日」の受賞を射止め、2年越しの夢を果たすことができました。

懐かしい風景は今もここに

受賞後、久しぶりに周南市に帰ってきた属さんに思い入れのある周南市の場所を聞いてみました。

「新幹線の車窓から海や工場の景色を見ると故郷に帰ってきたなと感じます。銀南街の雰囲気も好きです。先日、昔からある「昭月堂」さんでおせんべいを買い、変わらない素朴なおいしさにホッとしました。JR徳山駅は生まれ変わってとてもきれいになりましたよね。帰省したときには必ず友達とカフェに集合して近況を話してから出掛けます。憩いの場所が増えて嬉しいです。」

思い出の店は、参観日の後に家族で出掛けていたという老舗喫茶店「花の木」だそう。

「ここのカレーが大好きです! 黒に近い濃い色で、じっくり煮込んだコクのある味。甘みの後にじわじわと辛みがやってきます。東京の有名店にもいろいろ行ってみましたが、ここに勝るカレーはないです。」

最後に、周南市への想いや将来やってみたいこともお聞きしました。

「周南市は人が親切であったかい。とても暮らしやすいまちだと思います。モデルとしての下積みを重ねつつ、若い人たちに「やっぱり地元っていいよね」「帰る場所はここだよね」と思ってもらえるような発信をしていきたいです。たとえば、イベントにSDGsを絡めたフリーマーケットをするとか。学生さんやお子さんも巻き込んで商店街でファッションショーも企画してみたいです。」

属さんだからこそ伝えられるメッセージがたくさんの人に届きますように。そして、ミス日本「海の日」の今後の活動も楽しみにしています!

市長表敬訪問では藤井市長にサインを手渡ししました

記事:小野 理枝 / 写真:川上 優

執筆時期:2022年3月

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